あの心に残るバー

バーという場所を初めて経験したのはかなり大人になってからである。何せお酒が飲めない私だ、一人で酒処に寄る理由がない。しかしながらバーには興味があった。好きで読んでいた漫画にバーを題材にしたものがあり、そこに登場するカクテルの数々に心を奪われていたからだ。

そのバーに行く事になったのは、突然だった。私が興味を持っている事を知った連れが行きつけの店に連れていってくれたのだ。初めてのバー。憧れのバー!私の心は浮き立った。店までの足も弾む。何度も近くを通っていたのに、そこにある事を気づかせない様な、まるで隠れ家の様にその店はあった。重い木製の扉をはやる心を抑えてあけた私達を、オレンジ色の暖かい光が出迎えてくれる。テーブル席がいくつかとカウンター席しか存在しない小さな店ではあったが、常連とみられる客ですでに満席となっていた。ほどなくして、隅のカウンター席が空く。私達は並んで座った。背の高い足のスツールが少しきしむ。その音が妙に似合っている場所だった。

それまで私は、バーとは静かに酒を飲む場所で、話をする時は小声で話さなければならないものだと思い込んでいた。ところがその店は少し違っていた。飲み屋とは違う。やかましい騒ぎ声がする訳でも、大きな笑い声がするでもないのに、確かに楽しい思いで満たされた空間であった。客は皆席を超えて楽し気に語り合い、笑い合っている。そんな中、飲めない酒をオーダーする事になった私は少し困った顔をしていたのだろう。その顔を見ていたマスターからお勧めのお酒がありますが、いかがですか?と聞かれて思わずうなずいてしまった。

マスターは微笑んで静かにカクテルを作り出した。その手際の良さはまるでショーを見ている様で、私達は見とれてしまう。マスターが作り上げたのは薄いピンク色のカクテルだった。ピーチフィズだ。マスターはそれをこう言って差し出してきた。「アルコール度を低めに、それから少し甘めに仕上げましたので、お酒が得意でなくともお飲みになれるかと思います。」はたしてその酒は、ほかのどの店で飲むよりも美味だった。そして楽しい思い出として、私の心に強く残っている。

今でも時々思い出す。何故だかあの店思い出す時は、それは芳しい香りの様に心の中を揺蕩う。私の心までも見事に酔わせてくれた素晴らしい空間であった。最近、西麻布で見つけたバーは、それに似た空気を感じた。また長く通うことになりそうだ。

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